こんにちは。
町田明生晴です。
人は死ぬとどうなるのか?
日本人にとって「死」というと、どことなく暗いマイナスなイメージを伴うことが多いかもしれません。しかし実際は「死を意識すると人生がより輝く」のは心の仕組みだといえるでしょう。
そこで、今回はあえて「より良く生きるため」に「死」というテーマについて、書いてみようかと思います。
ちなみに、私は一般人で日本で暮らしているので、とりわけ多くの死に向き合ってきたわけではありません。また、死の専門家でもありません。ですから今回書かせていただくのは、個人的な感想となりますのでご容赦くださいませ。
とはいえ、祖母、祖父、父親、母親、そして想像以上に早く逝った妻を亡くした経験があります。私は一人っ子でしたから、妻を亡くした40歳代の半ばで、血の繋がっている家族のなかでは最年長になっていました。
さすがにその時は、「人の肉体的な命というのは、かくも脆くいつ壊れてもおかしくないのだな…」と感じたものです。
そしてその時は、私自身も死を強く意識した時期でした。そういう意味では「死を意識した時にこそ、愛や誠実さや潔さなどの命の本質が現れる」という体験を私自身もわずかながらしたことがあります。
ちなみに、第二次大戦中と戦後を生きた作家の三島由紀夫さんも、あるインタビューの中で次のように語っています。
「(戦争や特攻により)死が、決して遠くない将来にくると考えていた時の心理状態は、今に比べて幸福だったのです。実に不思議なことですが、記憶の中で実に美しく見えるだけでなく、人間はそういう時に妙に幸福になる。一方、(戦後の安定の)今我々が求めている幸福というのは生きる幸福であり、例えば、家庭の幸福やレジャーの幸福だと思うのですが、その中には、自分が死ぬと決まっている時に感じたような幸福はない。」
といったように、生だけに囚われている幸福と、死を意識した幸福が、どうやら全く別の質であることを感じる人達がいることは、確かなようです。
魂は存在する??
さて、家族との死別は、私にとっては想像以上に辛いものでした。ただ今回は、辛かった思い出ではなく、親近者の死を体験する中で私が感じた「魂と死後の世界」について書いてみたいと思います。
ちなみに私の母親は膵臓ガンでなくなりました。私の自宅で療養をしていたのですが、余命三カ月からどんどん体が弱り始めました。思い出すと、何もしてあげられなかったという辛さは今も呼び起こされますが、余命1カ月を切ったころのある朝、不思議な体験があったのです。
それは、母親はもちろん肉体的に生きていて会話もできるのですが、なぜか「魂というか意識の何か」があきらかに体から抜けていて、空間から私に話しかけてくるという現象を体験したのです。その時に空間に抜けている意識体のような母のエネルギー体?が、私に話しかけてきたことは今も覚えていて、言葉でいうと「そろそろ病院に連れて行って。」でした。
言葉だけだとシンプルなのですが、何とも言えない様々な母親の想いのようなエネルギーが一緒に伝わって、その時に「私も母親の死を深いレベルで悟った」ことを今も思い出すことができます。肉体として母親はまだ生きているのですが、なぜか魂が先に抜けているような感覚は、とても不思議な体験でした。
ちなみに、私がこの感覚を体験したのは、この一度だけではありません。それはある友人が目の前で突然意識を失って倒れた時があります。その時、私はとっさに後ろに回って彼を支えました。倒れ込みながら、意識を失った彼の肉体を後ろから抱えて支えているのですが、なんと、その上空に彼の魂が抜けているのがわかるのです。
混乱した私は、必死で上空の彼の魂らしき存在に語りかけたのを覚えています。「○○さん、違う!違う!まだ早い!戻って!!戻って!!」と… 私もパニックでしたので、これは考えてやったわけでも何でもなく、その場で起きたことになんとか対応しただけでした。
その後に救急車で病院に運ばれた彼は、幸いにも意識を回復して今でも元気にしています。とても不思議な体験でした。
あの世からお迎えが来る??
今度は、私の妻がなくなるときのことです。私は当時東京に住んでいたのですが、妻は療養のため東京から遠く離れた病院に入院をしていました。そして残念ながら、妻の容体が急変したと連絡があり、泣きながら長距離を車を運転して、病院に向かったことを今でも覚えています。
当時の妻は乳癌が肝臓に転移しており、病院についたときは肝性脳症で脳が破壊され、表情も崩れ、意識が朦朧として、話しが支離滅裂な状態でした。この時も私は、無力を感じながら、ただただ寄り添って共に死までの時を過ごしたことを覚えています。
そして肝性脳症は死に至る前に昏睡に陥るのですが、その時に不思議なことが起きたのです。表情も崩れ、話も支離滅裂で、しかも意識が朦朧としていた妻の表情が、突然正常に戻り、起き上がって、しっかりとこちらを振り向いてこう言ったのです。「パパ、本当にありがとう。」と…
そしてその後に昏睡に入り、以後は言葉を交わすことなく死を迎えるのですが、最期に彼女が私に話しかけた瞬間が、本当になんとも不思議だったのです。もちろん一瞬だけ、元気なころの表情や声に戻ったというのも不思議なことです。しかし、もっと不思議だったのは、私には明らかに「妻の背後に、私に礼を伝えるように促した存在がいた」と感じたことです。
妄想と言われればそれまでですが、次元の膜を一枚はさんだ向こう側に、私の眼には見えない存在が来ていて、その存在が私の妻に「もう行くから、きちんと彼にお礼を伝えて!」と伝えた(しかも超ハッピーで元気いっぱいな感じで)としか思えない状況だったのです。言葉ではうまく表現できないのですが、あきらかにそうだったとしか言えません。とても不思議な体験でした。
その時に私は、「そういえば死ぬときはお迎えがくると誰かが言ってた気がするが、本当だったんだ…」と確信したのを覚えています。確信といっても、あくまでも私の個人的な体験ですので、ご理解いただけれ幸いです。
死生学(タナトロジー)を話すドクター(医師)との出会い
それから数年経ったある時、舩井グループさんが企画するある大きなイベントで、私が講演者としてお話させていただいたことがあります。
その時に、私の直後にお話をされた先生がおられました。それが医師で死生学(タナトロジー)の専門家である加藤直哉先生でした。
「私は医師ですが、皆さんを安心安全にあの世にお返しすることが仕事です。」と、講演の冒頭で話す加藤先生にすっかり興味を抱いた私は、そのまま先生のお話を聞かせていただくことにしました。
加藤先生は、医師でありながら海外の大学で「死生学(タナトロジー)」を修められたとのことで、科学的な視点から死後の世界を研究する専門家でした。
そして先生がお話されたのは、「みなさんが死ぬと、、あの世からあなたを大歓迎する御一行様が祝福しながら迎えに来るんですよ。それはスタジオジブリの映画かぐや姫に月のお迎えがきたシーンみたいな感じです。」とのこと…。
先生の真剣だけどユーモアのある語り口に、「それは、死ぬのも楽しそうだ…」そう思ったのが私の印象でした。笑
しかも、妻がなくなった時に、お迎えの存在が実在することを感じた私は、興味津々で先生のお話を伺うことになりました。私の家族が死んだときは一体、どんな素敵なお迎えがあったのだろうか? そんなことを考えるだけでも悲しみが癒されたものです。
そういえば、浄土宗では、死後は阿弥陀如来が自らお迎えに来てくれ極楽浄土に行くことができ、さらに先に亡くなった人にもで会うことができるとされています。映画かぐや姫の帰還シーンは、阿弥陀如来がお迎えに来る来迎図にそっくりです。
そして、私のお寺も浄土真宗ですから、宗教としてはこうしたお話は知っていました。
しかし目の前で話しているのは宗教家ではなく医師、しかも科学的に死を研究してきたという専門家です。私は「浄土宗がいっている死後の世界のお迎えの話は、科学的にも本当なのか?」と興味が湧きました。それが私が加藤先生とのご縁を結ばせていただいたきっかけです。
私は心理セラピーをしていますから、死と向き合うこと、そして、死の恐怖が軽減することが、今を生きることに好影響をあたえることは経験として知っていました。
ただ、宗教やスピリチュアルな死生観は、様々な考え方や流派があるので中々お話をするのが難しいという側面がありました。
しかし、科学的な研究であれば、スピリチュアルや宗教の宗派を超えてきっとより多くの人に受け入れてもらえるかもしれない。そんな想いで私も死生学の勉強を始めたのですが、加藤先生の死生学(タナトロジー)はわかりやすく、シンプルでとても面白いものでした。
なによりも、死を学ぶことで、人は幸せになり人生がより輝くことは事実ですので、ご興味がわいたら、ぜひ皆様も学んでみてください。
次回のブログでは、加藤先生の著書から、死生学(タナトロジー)についてもう少し詳しくお伝えしてみますね。
今回もお読みいただき本当にありがとうございます。
町田明生晴 拝
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